思念が奔逸中

情報発信の体裁で雑念のみ垂れ流します

2018年下半期に観た映画レビュー

2019年度が始まって早半月近く。ずっとサボってきた映画レビューですが、半年分一気に片付けます。流石に時間が経ってるのでアッサリめです。

 

クレイジーリッチ!

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主要登場人物が全員アジア人という、ブラックパンサーに続いて人種面で社会的に意義のある作品。すごく楽しみな反面、単に全員アジア人を揃えただけで内容的には凡庸なラブコメなのでは…?という危惧もありましたが、ラブコメしつつ薄っぺらでない内容で満足しました。

ストーリー的には、「一般人だと思ってた彼氏が実は大金持ちだった!」という王道なもので、日本のドラマ「花より男子」に言及した紹介も多かったように思います。あと個人的にはアン・ハサウェイの「プリティ・プリンセス」とかが(こちらは彼氏ではなく自分自身がランクアップするけれど)ノリ的には近いのかな、と予想していました。ただ本作の主人公レイチェルは30代の経済学の教授です。最早地味で冴えない少女ではなく自分自身で積み上げてきたキャリアのある大人の女性を主人公にという所が、目新しさもあり重厚感のあるストーリーになったのかなと思いました。主人公が10代だとどうしてもひたむきさや誠実な人柄が決め手、という流れになりがちです。本作でも前提としてそれがありながら、これまで培ってきた知識で応戦する辺り爽快感が倍増します。観る前は正直、女優さんも綺麗だしこんなにスペックが高い設定で、いくら相手方がシンガポールの財閥とはいえ見下される展開ってどうなのよとちょっと思っていましたが、見てみるとちゃんとレイチェルは一般人に見えるようになっています。財閥側は見た目もゴージャスだし本当にバカみたいにお金を使って愉快です。それに対してレイチェルはチャーミングで賢くて応援したくなる人物造形です。レイチェルと彼氏の家族側は例によって対立する訳ですが、家族側の描き方も「とりあえず敵役として憎たらしい姑や小姑キャラを置いておこう」というノリではなく、それぞれ背景を持った人物となっており、アジア人とアメリカ人という対比も描かれ、説得力のある展開でした。

個人的には、オーシャンズ8に出演していたオークワフィナが出ているのも楽しみでした。レイチェルの大学時代の同期ペク・リン役でしたが、オーシャンズの時よりも台詞が多くコメディエンヌ感が増し増しで、出てくるとホッとする役柄です。髪型はあんまりやったけど。終始レイチェルに味方してくれ手厚い協力もしてくれるペク・リン。レイチェルは大学時代余程恩を売ったのだと思う。

あとこの映画、観終わったら絶対餃子食べたくなる!飯テロ!!

 

サーチ

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「クレイジーリッチ!」を観た時に予告編で見てめちゃくちゃ気になって公開後すぐに鑑賞。全編通してPCやスマホなどの端末の画面がそのままスクリーンに映し出されるという斬新なアイディアの作品。もちろんそのアイディアを完遂する為だけの作品にはならず効果的に作用しています。展開もですが、端末を操作する人の心理も読み取れるディティールが絶妙(長文を書いて一気にバックスペースで削除とか)。もしかしたらその縛りの為に多少無理のある流れにしている所もあるのかも知れないけれど、日本人としてはアメリカ人FaceTimeとかの顔が見える手段好きそうだし良く使いこなすなーくらいの気持ちで見れました。話の大枠としては突如行方不明となった娘を父親がウェブ上の情報を辿って探す、というものです。この家族は韓国系アメリカ人なのですが、アイデンティティ云々などの話はないし、別にこの家族が韓国系でなくても物語は成立します。監督がインド系ということもあり、映画界的にはマイノリティ主体の俳優起用という潮流の中にあるのかも知れません。「クレイジーリッチ!」がアジア人である必然性がある物語に主要キャスト全員アジア人を起用したという成果を挙げたのと対照的に、人種関係なく成立する普遍的な物語の中心人物に何の説明もなくサラッとアジア系を据える、というその先の進歩が見えた気がしました。

これから本作を見るのであれば、それこそソフトやアプリの流行り廃りはがあるので、あまり古びないうちに観るのが吉かなと思います。端末状のフルスクリーンを実際にPCで見れたらそれこそ臨場感がありそうだけど、端末上の細かい動きと字幕の両方を追うので私は映画館で観れて良かった派です。心配な方は大きめの画面で是非。まあでも一番の衝撃は高校生の娘役だった女優が30歳とかだった事ですね。いくら東洋人が若く見えると言っても驚き。めちゃくちゃ化粧覚えたてのティーンエイジャー感が出てたし全然分からなかった!

 

 

音量を上げろタコ!(音タコ)

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バンド「八十八ヶ所巡礼」の面々が少しとはいえ出演されるらしい、と知りどうにかこうにか鑑賞いたしました。正直な所、冒頭からひと段落するまでは絵面が汚い感じだったのと特定のキャラクターを無駄に痛めつける設定にしているように見えて苦手かも…と思ってしまいました。あと序盤は割と冗長な描写が多かった印象です。しかしそこを乗り越えると最初の露悪的な感じはそこまで引きずっていなくて安心しました。この映画、興行成績はあまり振るわなかったようです。確かにごく一般的な話の展開が整った映画に比べるとカオス度が凄いです。主人公(吉岡里帆の方)の性格に一貫性やリアリティはないし、台詞も割と台詞回しっぽい(いくら女性キャラでも今時「〜だわ」とかめっちゃ台詞やん)のも苦手な人は苦手かも。でも私は途中で考えるのを止めたら楽しめました。何故今そういう展開になっているのか、裏でどういう繋がりがあって今のシーンに辿り着いてるのかなどは一切気にしたらダメなやつです。色んなキャラクターがでて細かい疑問が出て来ますが基本的に最後まで回収されません。この作品は途中から少し雰囲気というか舞台や展開が変わるターニングポイント(88の面々が出た後辺り)があります。その展開がまあ唐突だなーという印象だったのですが、実は大きい目でみると最後で作用してるので私のガバガバ判定では伏線回収はやってます!(観た人は分かるはず…伝われ!)本作は「パンク侍、斬られて候」と比較して言及される事もあるようです。両作ともぶっ飛んでいて、とりあえず流れに乗って見とけ!というタイプなのですが「音タコ」の方がよりエントロピーが高いです。「パンク侍」は原作が町田康で脚本が宮藤官九郎。原作がある以上、そのエッセンスを汲みながら今の時代や映画という媒体に最適化し落とし込んだ形です。対して「音タコ」は原作がなく監督と脚本家が兼任。とにかくやりたい放題で、しょうもない台詞も言いたければ役に言わせるし、色々放り投げては風呂敷を畳まなかったりします。

 

malily7.hatenablog.com

 

で、この映画のメッセージは一応一貫して「やらない為の言い訳を探すな」だったと思うのですが、何というか全体的な映画のカラーの割に凄く真っ当というか単純というか、陽の要素が強めで間口が広い感じがします。「パンク侍」は元々原作が持つイメージの上にちょっと(わかりやすく)玄人好みっぽいキャスティングとその延長線上っぽい刺さる人に刺さるプロモーションの仕方、何となく哲学みのありそうな後で咀嚼が必要なメッセージが合致していて、興行成績的には分かりませんが、観た人の満足度は高いようでした。一方で「音タコ」は「吉岡里帆阿部サダヲ千葉雄大!ハイドやあいみょんの楽曲提供!前向きそうな青春ぽいテーマ!」から入ってみると何となく残念な感じになり、パンク侍的振り切れに期待をしていた人には物足りない印象になってしまったのではないかと思ってしまいました(あぁ今めっちゃ小賢しいこと言ってるな)。何か軽くディスった感じになったけれどとにかく楽曲が格好いいし、阿部サダヲがイケメンに見えてくるし小ネタが効いてるし楽しかったです。そして何より88を起用して下さったので大感謝です。思ったより尺が長かったしそれなりに意味のある役割だったように思うし、いつもと少し違う感じの衣装や女性ボーカルを迎えている新鮮味も良かったです。観るのに一生懸命で提供した楽曲は全然覚えていないのが残念ですが。

 

ボヘミアンラプソディー

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元々はクイーンそれほど知らないし観なくてもいいかなぁと思っていたのですが、余りにも人気なので気になって鑑賞。時間の関係で4DXの会場で見ることになったのですが、結果的には大正解でした。ライブシーンの臨場感が凄かった。史実ではライブエイド時にフレディに病識はなく、前のライブから間が空いているわけでもなくこなれたパフォーマンスだったと聞いていたので、あくまでもその辺りの時系列の操作はフィクションだなーと思いながら観たのですが、それでもライブシーンの熱気や俳優達の気迫が圧倒的でした。そして恐らくバンドマンあるあるであろうレコーディング時の流れがいい時の盛り上がりや小競り合い、レーベルとの対立などリアリティがありワクワクするエピソードの積み重ねがカタルシスを生んでいるなと思いました。

 

刀剣乱舞

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後輩に誘われて鑑賞。刀剣コンテンツは年末の紅白歌合戦で観たのを除いて初めてでした。キャスティングは刀剣乱舞の舞台に出ている俳優を中心に、刀剣は一部他の俳優に変更。武将役は八嶋智人山本耕史と言った有名どころの実力派を起用しています。観る前に最低限刀剣乱舞の世界観について予備知識を入れてから観ましたが、それがなくても十分理解できる作りでした。ストーリーは映画オリジナルとの事ですが、刀剣乱舞ファンの後輩もそうでない私も納得の良くできた筋です。刀に詳しくない私は当初名前が覚えにくいと感じていたのですが、それぞれの刀剣のキャラクターがわかりやすく直ぐに見分けられるようになりました。個人的には短刀は短パンを履いているというのが面白かったです。刀剣男子達の出で立ちは髪色がカラフルだったり二次元コンテンツ的な服装、建物などの空間も基本は和の設えで衣装に比べると従来の時代劇らしさがありますが、やはり独特のニュアンスがあったり現実離れした光景など、歴史改変SFらしい空気感のビジュアルです。全体的に見応えのある美しい絵面が多いと感じました。こういう今まで自分に馴染みのなかったコンテンツの映画版、興味が多少あっても自発的には行かなかったらするので、誘われて良かったなと思いました。

愚痴を吐くお作法の話

「愚痴ばかりの職場の呑み会なんて絶対行きたくない。ネガティブな雰囲気がしんどいし建設的でないから時間の無駄でしかない」という意見を皆さん一度ならず耳にした事があるのではないでしょうか。私は聞くたびに、「そうは言ってもアナタは日頃全くネガティブな気持ちにならないのか⁉︎それを吐き出さず自分の気の持ちようだけで立て直しているのか⁉︎聖人か⁉︎」と懐疑的に思っていました。

しかし私はついこの前気がつきました。これは体質の問題です。だってポジティブな面子のポジティブに終始した呑み会って疲れる。疲れるのは予想がついていたけど翌日謎の頭痛に見舞われました。明らかに二日酔いになる程呑んでいないし吐き気等のより頻出する症状も出ていないのにです。ポジティブに当てられたとしか考えられない。そもそもスーパーポジティブ星人と体育会系全方位気遣いの鬼の二人に、企業広告炎上ウォッチが趣味という(前記事参照)社会性で粉飾しただけのネクラな私が着いていかれる訳がなかった(ついでに言うと呂布カルマがポップ寄りと評される日本のラップ界の話にも着いていけなかった)。

そうは言っても私だって常にネガティブな話題を話したい訳ではありません。仕事や人間関係を離れた趣味や娯楽の話は大好きです。でもその趣味や娯楽の種類(やそこから導き出される価値観)が正反対だと中々辛いものがあります。そういうNot for meもしくは自分的に「跳ねへん」話題、序盤の「誰が何に関心があって、どういうきっかけで知り、どういう点に面白みを感じているのか」などは興味深く聴けるのですが、更に詳細な話になると、その事柄に今後自分がコミットする気になれない以上中々しんどくなってきます。

という事で、私はこれからも呑み会で愚痴を言い愚痴を聴いていくつもりなのですが、愚痴を吐くにもやはり最低限他人を不愉快にしない作法があるように思うので、自分なりに気を付けている事を以下に記載していきます。

 

①話の筋と無関係な悪口を言わない。

愚痴というのは有り体に言うと、他人(外的要因)の良くないと自分が考える点をアウトプットする事だと言えます。その時に、本来愚痴りたい点とは無関係の悪口を言わないようにはしています。特に出自や年齢、性別、身体的特徴などをなんの因果関係もないのに結び付けて話すのは不快でしかないと思っています。

 

②感情のまま言い放たない

感情のまま喋ると①のように無関係な暴言を吐きかねないというのもそうですが、だらだらと結論のない話を聴くのが苦痛に感じる人もいます。なので「愚痴の元となる出来事とその分析や自分の見解」を話すつもりでいます。よく「愚痴を言う側は共感されたいだけなのに、聴かされる側は解決策を示したがって喧嘩になる」というのがあります。そうならないように予め「愚痴の原因を解消するために状況を分析してみたが、その結果自力で出来ることは無いという結論に至った」という話の流れにもっていって、相手に単なる感情の垂れ流しでは無いという印象を与えつつ、相手から悪気なく繰り出される的外れなアドバイスやクソバイスを出来るだけシャットアウトします。そもそも聴く側が話し手が愚痴の原因に不満を持つこと自体に懐疑的だったり、反論や説教をしたいだけだったら諦めた方が良さそうですが。あと「自力で出来ること」は話し手が決める事なので、一旦何もできないという結論に至った後、出てこなかった方策を提案するのは問題ないと思うのですが、「それは既にやった」「既に考えたがやはり困難だと判断した」「その方策は考えなかったがやはりやりたくない」という自由もあるので、聴く側は自分の意見が採用されるor気にしない事にするね!という結論になる事は期待しないで頂けるととても嬉しいです。

 

③殺伐とした雰囲気にしない

話していて結果的に落ち込んできたり怒りがぶり返して来る事もあるので無理する必要はありませんが、せめて導入は暗くなく話題提供というテイが良いのではないかと思います。(それかもう今日はそういうモードだと最初から気付かれるようにする)

どうしても汚い言葉を使いたくなる時は、出来るだけ①に反しない抽象的な表現を使います。最悪の場合は「〜と思って」と末尾につけてお茶を濁します。私自身はどちらかというと話し下手だし面白い事を言えるタイプでもないのですが、②の感情任せだと思われないように怒りを敢えて普段話し言葉では使わないような言い回し(腹わたが煮えくりかえる、とかクソofクソとか?)で少しはポップに響くようにしたりしています。

 

私自身は割と愚痴を聴くのも苦にならない方です。性格が悪いのもあるかと思いますが、以外と皆さん愚痴を言うのが上手いのか、上手い愚痴以外は悪口と解釈しているんでしょう。物事には大抵良い面も悪い面もある訳で、特に仕事関係であれば悪い面を知る事はリスク管理に繋がります。どんなに人柄が良い人や有能な人でも苦手としているもの(タスクの分野や特定の人間関係など)はあるものです。その点愚痴は貴重な情報源です。周りの状況が見え必要な気遣いが出来たり、地雷を回避できたり、スムーズに仕事が出来る様な判断をしやすくなります。そもそも愚痴をいう必要のない環境が一番良いとは思いますが、そういう状況である以上はリスクヘッジして将来のストレスを軽減した方が良さそうです。

 

そうこう言いつつ、私の愚痴も聴かされてる方からすれば話長いとか賢しらで鼻につくとか思われている可能性もありますが、①②③を守らないよりはマシな仕上がりになっていると信じているのでなんとかお付き合い頂けると助かるなと思っています。

 

 

 

広告炎上の原因は結局 誰が誰に向かって言っているかという構造と文脈の問題だと思う

※個人の感想です

今年に入り二ヶ月が経ちましたが、今年もハイペースで広告炎上が起きていて驚いております。特にLOFTのバレンタインの件では思うところも多く色々纏めたいなと考えていたのですが、そんな中こちらの本が良いよという評判を見たので早速読んでみました。

 

 

炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

 

 

本書は、ジェンダーの取り扱いが原因で炎上した広告事例の分析と、ディズニー映画における女性の描き方の分析を通し、「炎上しない企業情報発信」をする為に必要な観点を示したものです。ディズニーに関する章は全く知らない分野だった事もあり、ディズニーの大衆に受け入れられるような旧来のエッセンスの残し方など非常に興味深く読みました。

しかし今回は広告炎上に焦点を絞って読書感想文を書きます。

 

一通り色々な事例を読んで率直に思ったのは結局何が癇に触るかは千差万別だという事。たとえば一視聴者の率直な感想として、私は女性ですが、事例にあった宮崎県日向市のPR動画で描かれる「あるべき男性像」に対して違和感を覚えました。一方、サントリーの「頂」に対しては不適切だと思うけれどある意味現実味がなさすぎて怒る気にもなれないという印象でした。むしろ檀れい版の「金麦」の方が、ファンタジーでありながら妙に現実味があって笑えない気がしました(別に取り下げろとも思わなかったしビールは美味しければ何でもいい)。

多くの視聴者は、世の中に数多くある広告の全てが自分の価値観と合致するべきだと思っているわけではないと思います。広告炎上は個人の快/不快だけでなく構造と文脈の不味さによって起こっていると考えられます。

 

⑴顧客を揶揄する構造

先日起こったLOFTのバレンタイン広告の炎上はまさに「顧客を揶揄する構造」によって起きています。あの図柄がショッピングバッグではなく、たとえばビレバン辺りで売っているような雑貨として自発的に購入して楽しむものであったとしたらサブカルカワイイで問題は無かったでしょう。

問題は、顧客としてターゲティングしている層を小馬鹿にしているように見える、という構造にあります。一部報道では「女性全体が裏で足の引っ張り合いをしているという描き方で自分も同じだと誤解される」というクレームがあったという様に伝えられていましたが、本気でそう思っている人はそこまでいないのではないかと思います。どちらかというと「広告の訴求層として尊重されるべき立場のはずが、真正面から揶揄の対象にされた」事に対する不快感ではないでしょうか。更に、そもそも嫌がらせをしている場面が描かれた紙袋に入れてチョコレートを渡す事の是非とか、ウェブ動画にしても何を訴求したいのかが不可解な出来であったことから輪をかけて炎上に繋がったとみています。

 

この、顧客を揶揄する構造による炎上は2018年にキリンビバレッジのSNS広告「#午後ティー女子」でも起きています。共通点としては既に女性の支持をある程度獲得している女性クリエイターを起用している事が挙げられます。

ここからは完全に憶測なのですが、この様なクリエイターに目を付ける辺り、企業側の担当にも女性(か少なくとも若手社員)が含まれていたように感じます。正直LOFTの動画や午後ティー女子の人物像の絶妙なニュアンスが、「ズッ友って何?」などと言い出しかねないようなおじさん社員が理解して推進したとは考えにくいです。中高年の男性社員は決裁権者として存在したかもしれないけれど、むしろ内容に関しては人気の女性クリエーターがいるからお任せする、というスタンスだったのではないでしょうか。更に担当者側はクリエイターや訴求層に近い属性だった場合、「企業→顧客層」ではなく「私達→私達」という共感ベースのコミュニケーションとして自虐ネタのつもりで発信する、という事態になると考えられます。上記の企業に実際に当てはまるかは分かりませんが、顧客層のセンスに理解のある現場担当とそうでない決裁権者という組み合わせでは起こりうることだと思います。その為にも、企業広告という文脈である事を意識し、チェック出来る体制は必要です。

この広告は炎上を受けて取り下げられましたが、それを受けて表現規制だとかつまらない世の中になるといった意見も聴かれました。私自身は広告を取り下げるのは企業判断だと思うので、それに対して企業を批判するのは筋が違うかなと思っています。企業が自社の予算で作成した広告で、これが訴求層に刺さらなかったから取り下げるというのは自由だと考えます。これだけ書いておきながらですが、私自身はこのバレンタインキャンペーンの訴求層には居ないので、この広告が刺さっているのかは分かりません。しかし、キャンペーンには当てはまらなくともLOFT自体の幅広い対象層への印象も考慮して、継続掲載がマイナスになるという判断だったと推察します。

蛇足ですが、この炎上が始まったのが週末、土日を挟んで月曜日の午前中に取り下げが発表された事に関しては、LOFTの社員の方はちゃんと土日を休めたようでホワイト企業っぽくてそこに対しては好感度が上がりました。別にあの広告が土日に掲載されていようが誰も死なないし。

 

⑵特に誰が言っているかが問題であるケース

広告炎上が誰が誰に対して発信しているか、に依拠している事は、直接訴求層を揶揄するパターン以外の事例にも当てはまるように思います。2017年にはちふれ化粧品が「女磨きレベル診断」というウェブ広告を打ち炎上しました。この広告は「診断」のコンテンツに対してや女性に対して強迫観念を煽っている点を批判されましたが、それだけでなく「ちふれ化粧品」が発信した事が炎上化させる大きな要因だったと思われます。ちふれ化粧品は華美なイメージは無く品質の良さで勝負するようなブランディングをしています。対外的に自分を飾る為というより生活に密着した使用シーンが想定されていて、値段も比較的安価です。化粧品会社の中でも特にこのような実直なイメージのあるちふれ化粧品からの発信だったからこそ、視聴者のショックが大きかったと言えます。

 

対象が女性以外で炎上した例に、2018年の東京都のパラリンピック広告があります。この広告は、パラリンピック選手の写真の上に、その選手の過去のインタビュー等から言葉を抜粋しコピーとしたものです。その中の一パターンに「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ。」というコピーがあり炎上しました。元々は当該の選手が自分自身を鼓舞する為に言った何の問題も無い発言でしたが、この部分が切り取られ、発言の主体が東京都のように見られた事で炎上に繋がりました。そもそも「言い訳するな」系の言説は当たりが強く、自分自身に対してか、特に信頼関係を築けている間で成立する言葉です。それが、「選手が自分自身に」という関係性が見えづらかった(駅に掲出されているものを一瞬で解釈することは難しい)ことに加え、特にポリコレに注意を払っているはずの行政(行政の広報は掲載される人物のイラストの男女比まで調整するような世界です)から発信されたことが、反発を強めたと考えられます。

 

上記の事例から、特定の企業(団体)が言っているからという理由でより炎上が増すことが分かります。自分の企業や団体がどういった理念を提唱していて、どういったイメージを持たれているか、何を期待されているかという事にも目を配らないといけないという事ではないでしょうか。

 

⑶良いことを言ってるっぽいのに鼻につく?

この記事を書くにあたって、実は自分の中で消化出来ていない広告がありました。今年初めの西武そごうの広告です。というのもコピー自体は確かに理想論的ではあるもののそう悪くないように感じたからです。確かに要旨が分かりづらい文章ではあるけれど主張の内容自体は真っ当なもので、炎上にいたる要素はあるだろうかと思いました。そんな折に、下記のサイトの記事でこの広告について的確に分析されていたのでとても腑に落ちました。

zakkan-vivi.com

おそらく私はここで説明されている言外に言いたい事をある程度脳内で補足して読んでいたのでそこまで反発を覚えなかったのだと思います。しかし、それでもこのポスターに好感は持てません。世間ではコピーに関しての批判が多かったようだけれど、これはコピーだけの責任というより顔にパイがぶつけられているビジュアルとのミスマッチと、ビジュアルそのものの不快感も原因のように思います。

コピーでは結論部分でかなり希望的な事が謳われているにも拘らず、ビジュアルはパイを投げられて顔が見えないという悲惨な状況で、落差が激しく唐突な印象を与えています。もちろん、コピーの前半で述べられている女性を取り巻く悪い現状の比喩である事は理解に能うのですが、何故その部分をビジュアル化しようとしたのかという疑問が浮かんできます(これはもう一つの明るいビジュアルのものと一対になる前提のようだったけれど、拡散された方だけ見ると奇を衒っただけでは?という印象に)。そもそも女性が虐げられているという悪いイメージのものが視覚化される事自体がポスターの印象を暗くしてしまい、あまりこの手の広告に(それも新年から)合わない表現だったようにも思います。

また一個人の勝手な意見としては、パイ投げってそんなに世間に受け入られている文化なんですかね?というのがあります。あくまで広告なので差別や偏見、犯罪をある種のポップな比喩に落とし込む必要性はありますが、これは比喩としてある意味的確過ぎて良くなかった気もします。パイ投げは一般的に内輪でのジョークや悪ノリで行われますが、投げる方は楽しんでいても投げられる方は全然楽しくないパターンは結構あるのではないでしょうか。この両者の非対称な関係性が、ちょうど差別的な発言をする側の「冗談のつもりだったのにそんなに怒るなんて」みたいな意識と妙にリンクして笑えない気持ちになりました。「深刻な状況がある」という現状はちゃんと認識している割に、ジョークグッズに落とし込むのか、みたいなところにモヤモヤが発生するのかも知れません。などと宣っていますが、なんというか私パイ投げ嫌いなんすよ。

ポスターと一緒に展開されていた動画に関しては、百貨店らしいお洒落感もありつつ、ポスターから受ける印象よりも力強い印象で何が言いたかったのかもう少し分かるようになっています(最後は確かにパイを拭うだけでなくカメラに投げ返す方が良かったかも)。


【西武・そごう】わたしは、私。オリジナルムービー

これは安藤サクラさんの演技力があった事も大きいと思います。安藤サクラさんを起用したのはこの演技力や広告に出た時の訴求力などを正当に評価しての事だと思いますが、それ以外の視点からもバランスの取れたキャスティングだなと思いました。この広告内容でもう少し若かったり無名の人を起用してしまうとより悲壮感が出てしまうし、さらにキャリアが上の人だと現実感が無くなってしまいます。安藤さん自身は芸能一家だったりお子さんがいたりしますが、あまりそういった背景を感じさせず一個人として評価されているので、広告のメッセージがブレるような余計な文脈が発生しない人選だと思います(だから今一番きてる女優の顔を見せないみたいな奇の衒い方をするから炎上するんじゃんか素直に安藤サクラ出しといたら良かったのに)。

 

良いことを言ってる風なのに炎上したので思い出すのは2017年の牛乳石鹸WEB動画です。概要としては、「父親の在り方に葛藤を抱える男性が、子どもの誕生日に約束を違え遅くに帰宅、その後牛乳石鹸のメインコピーである"さ、洗い流そ"が出てくる」というものでした。何か問題提起したい意識は感じるし、文芸作品なら問題なかったのかも知れませんが、父親の行動がサイコ過ぎて(まったく連絡をせず生ケーキ購入後に後輩と飲みに行く!)メッセージ的なものが頭に入ってきませんでした。

牛乳石鹸に関しては、それ以前にもこの「さ、洗い流そ」のシリーズで「今日も若手社員を泣かせてしまって。自責の念でいっぱいです。」というコピーとともに満面の笑顔の女性というポスターでざわつかせたのでその頃から炎上の萌芽はあったと思われます。「さ、洗い流そ」のシリーズは本来、日常的な葛藤や挫折を洗い流しまた明日から頑張ろう、というようなメッセージを色々な職業の方をピックアップして表現するという意欲的な広告だったと思うのですが、誰かに迷惑をかけたり傷つけるような描写の上に「さ、洗い流そ」は文脈的にアウトだったのかなと思います。

 

⑷最近の事例

この記事を書いているうちに、トヨタTwitterアンケート(女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱり車の運転って苦手ですか?)が炎上し、そんな中で日本文学者でコメンテーターのロバート・キャンベル氏がワイドショーにて図らずも広告炎上は文脈の問題だとおっしゃっていました。キャンベル氏の「性別で能力を限定するような偏見を、影響力のある大企業が助長してはいけない(要約)」というような部分(司会者に「それは正論なんだけど」と評されていた)は示唆に富んでおり異論はありません。しかし炎上という部分に着目すると「やっぱり◯◯苦手ですか?」という構文は単純にムカつくのでは?と思いました。

たとえば

「高卒の皆様、やっぱり漢字を読むのは苦手ですか?」

「65歳以上の皆様、やっぱりパソコンは苦手ですか?」

どちらの文章も言われた側はイラッとすると思いますが、上の文章については自分がどういった学歴であっても、自身が漢字が得意か苦手かに拘らず、この文章はマズイ、と思うのではないでしょうか。明らかに学歴差別的であるし、漢字が得意であるという反証はあらゆる面から行えるからです。

下の文章はまだ世間的なイメージにも合致しているし、反証も個別の事例ごと(誰々は65歳以上だが得意だ)になりそうですが、それでもその後に「それは先入観で誰でも出来ますよ」もしくは「苦手意識を無くすよう設計やナビゲーションを改善します」という流れにならないとプロモーションにはなりません(今回はTwitterアンケートということもあって、煽りの部分だけしか発信出来なかったのも良くなかったのでしょう)。またこの質問を65歳以上のIT企業の重役にしたら失笑を買うのは目に見えています。にも拘らず、(企業が対象層の個別の状況を知り得ない広報媒体でのコミュニケーションで)女性ドライバーに対しては明らかに癇に触る構文をぶつけてくる構造に「舐めてるな」という印象を持たれたのではないでしょうか。 

当該のワイドショーでは別のコメンテーターが「たとえば"やっぱり男性って料理苦手ですか?"は駄目なのか」という疑問を提起されていました。個人間のやり取りであれば、それこそ関係性と文脈によると思うのですが、広告だった場合に炎上するかどうかは微妙な気がします。男性にとって料理は高めるべきスキルと捉えていない層、寧ろ出来ないことがステータスだと思っている層にとって、この質問は何の痛痒もないでしょう。そう考えると、キャンベル氏の「正論」部分を発信していくことは、生まれ持った属性で能力を限定されない為に、意味があるのではないかと思います。

 

生誕110年 東山魁夷展 感想

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会期終了前日に滑り込みで「東山魁夷展」を観てきました。会期は後1日しか無いのですが終わる前に感想を述べておきます。

 

生誕110年 東山魁夷展 | 京都国立近代美術館

本当は先週行きたかったのですが台風の影響で臨時休館となりまさかの三連休の中日に行くことに。京近美の周りはホールや展示会場が集まっているのですが、ちょうどよく分からない野外イベントがあって賑やかでした。それなので実際に京近美に向かう人がどれだけいるのか観測出来なかったのですが、しっかりチケット売り場も建物に沿って列が出来ていて流石の東山魁夷でした。(海外名画や切り口が面白い企画よりは若干渋めですが、京近美にしてはメジャー感のあるテーマ(画家)という事を鑑みると、ある意味妥当な混雑具合と感じました)

 

展示会場の入り口は建物エントランスから入って正面の大階段と、エレベーターで上がる二つありました。私は大階段から入場しましたが、こちら側から入ると第1の空間から第2の空間への順路が直感的に分かりづらいように感じました。これに関しては10月とは思えない暑さと予期せぬイベントでの騒がしさによる疲れで私がボンヤリしていたせいもありますが若干ストレスでした。雰囲気を保つために極力パネル掲示等を避ける観点は分かりますが、迷いそうな所くらいは配慮があっても良いと思います。

 

反対にいうとそれ以外の観点では、全体的なパネルの少なさは功を奏していたと思います。近年の美術展は「企画」の要素が強いものが多い印象です。来場者が作品を観る上での新たな視点を予め提示し、それに沿った情報を随時(各セクションなり各作品なり)与えていくという形式のものは、その分情報量が多くなりパネル量も増えます。

こちらの展示は、各セクション毎に導入パネルはあるものの、説明コーナーというほどの量はありませんし、一つ一つの作品毎の制作背景の説明も置いていません。作品そのものをどっしりと見せていくようなタイプの展示でした。題材自体がそれほど説明を要するタイプでは無いのもありますが、絵の力そのものがシンプルに伝わる作りです。そして、パネルがないことで会場全体の動員の割には、一つの作品の前に滞留する人が少なくスムーズで見やすいように思いました。

 

広報物に掲載されているメインコピーは"本当の「あお」に出会う"ですが、当然ながら、あの東山魁夷の代名詞といえそうな黄味の強い緑に近いような、所謂ティファニーブルーに近いニュアンスの青以外をメインに据えた作品もあります。有名な「道」が比較的早い段階でサラリと置いてあったのも意外でしたが、ふんわりぼかしたような優しげな風景画は東山魁夷の一面に過ぎずコントラストの強い風景画を見られたのも意外で良かったです。個人的には北欧の静謐で峻厳な印象の作品が素敵だと思いました。

一部建築を描いた作品もありますが、自然をメインにした風景画が多くを占めています。様々な土地の様々な自然の表情が立体感を持って描かれていて、これは実際に本物を近くで見る醍醐味だと感じました。

 

会場は前述した大階段を登った先の3階全域と4階の一部で「東山魁夷展」を、4階の残りのスペースで「バウハウスへの応答」の展示を行なっていました。3階から4階へ移動する際に、エレベーター側からの入場口の前を通る形になります。こちらには、唐招提寺の障壁画「山雲」を再現したものが展示されていました。再現だし照明も暗かったけれどこれが素晴らしかった。これまでの展示であのティファニーブルー以外にも様々な「あお」を見せ付けられていたわけですが、これが本当の「あお」かと勝手に思いました。より青味が強く冷たい感じの色で個人的に好きなタイプの青だというのもありますが、障壁画という枠の中で斬新さと品格を兼ね備えた表現だと思いました。近年でも現代画家の方が寺院の障壁画等を手掛けられ、先進的な試みのように感じながらそのニュースに触れてきましたが、こういった伝統と先進性の融合はいつの時代も行われていたのだと実感しました。先程入場した際はキュレーションが不親切だの思っていたのに、大階段から入って3階の最後に見られて正解だと図らずもキュレーターに感謝しました。

 

正直もう4階の展示は蛇足ではないのかとすら思ったのですが、全然そんなことはありません。晩年の普遍性を高めた作品はどんな作風であっても凄みがありました。

 

併設の「バウハウスへの応答」も興味深かったのですが、こちらも順路の問題が。東山魁夷展から続く形で入場しましたが、4階の広間の所から直接バウハウス展へ入場するのが正式な順路だったので、今何を見ているのか分からず作品を見て後から知るという現象が起きました。一つ一つの展示物毎に(あるいは特定の展示物を重点的に)解説がついている事もありませんでした。スペースの関係上仕方ないとはいえ、若干フラストレーションが溜まる作りです。東山魁夷展は一人の人物がテーマとなり作品も基本は平面の絵画なので、説明が少なくても成立する展示ですが、「バウハウスへの応答」はどちらかというときっちり情報・知識を提示していく必要があるタイプの展示であるように思います。とはいえ、バウハウスについて改めて知る事もあり、中々お洒落空間で楽しかったです。久し振りに井田照一の作品も見れたので良かったです。

 

映画「カメラを止めるな!」の事前情報が無さすぎて二の足を踏んでいる方へ

kametome.net

ちょっと前から話題となっている映画「カメラを止めるな!」を遂に観てきました。

前々から気になっていたものの、調べても調べても観た人皆「何の予備知識も持たずに観た方がいい」しか言わないかネタバレサイトしか無いし、そうこうしているうちに権利問題で揉めたという情報も入ってきてどうしようかなーと思っていました。しかし、先日急に何か映画を観たくなった時にラインナップを見て一番観てみたかった映画だったのでノリで観てみることにしました。観る前はちょっと懐疑的な気持ちもあったのですが、普通に面白かったです。

 

という訳でこの記事は内容のネタバレはしないけれど、情報不足で二の足を踏んでいる人に向けて書きます。是非観てみたいし最大限楽しみたいという人は回れ右です。そういう方に言える事は兎に角フラットな気持ちで見ろ!という事です。以下、一応ネタバレはしませんが公式から出ている情報から類推出来ることは述べて行きます。(ちゃんと言いましたよ!)

 

①とりあえずゾンビ映画ではある

最初に申し上げたいのは、こちらはホラー映画ではありませんが、ゾンビ映画ではあるという事です。なのでゾンビ映画が苦手な方、そこそこグロい描写が苦手な方はもしかしたら止した方がいいかもしれません。

 

②最初は我慢が肝心

公式のビジュアルに「この映画は二度はじまる」とあるので何となく皆さん勘付いてると思いますがまあそういう事です。

媒体の形態として異なるので参考になるか分かりませんが、例えば小説の「イニシエーション・ラブ」(乾くるみ)、「殺戮にいたる病」(我孫子武丸)、「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午)、的な終盤での衝撃とは少し異なります。

寧ろそれより構造として近いのはこちら


ナイツ「野球の話」すごいオチ!!バトル2016

この動画だと最初は笑いを取っていますが中盤じっと聴いているような忍耐の時間があります。イメージとしてはこれですね。トリックで強い衝撃を与えるというより、伏線回収そのものがコンテンツになっているタイプの話です。どうでもいいけどナイツは面白いです。笑点の演芸の時間がナイツだと安心します。

 

③どういうモチベーションで観に行ったら良さそうか

正直今回のシンデレラストーリー的な取り上げ方でハードルが上がってしまった所はありそうです。スケールの大きさだったり衝撃度や感動を求めるのであれば、もっと他の比較的しっかり予算を掛けた作品でも面白いものがあるとは思います。今回のヒットは作品自体の評価(と話題になりやすいストーリー構造)もさる事ながら、かなりの低予算でありながら普通かそれ以上に面白い作品を生み出した、というある種のコスパの良さによるところが大きいのではないでしょうか。

とはいっても我々一般消費者としては、同じ映画館で観るならハリウッド大作であろうが低予算映画であろうが同じチケット代を払う事になりますから、結局のところ作品に満足できるかが重要です。作品制作秘話など付随情報をストーリー消費するのは楽しいけれど、それは本体が面白ければという前提だと思うし。

なので、「カメラを止めるな!」を観るにあたってはそういう周りの評価や付随情報を気にせず、一つの楽しい娯楽映画としてフラットな気持ちで観に行くのが良さそうです。

何も考えずに面白そうだから観に行って「普通に面白かった!」っていうのがきっと正解です。

パーソナルカラーと骨格診断を受けてきた

先日、パーソナルカラーと骨格診断を受けてきました。

 

パーソナルカラーとは自分に合う色味の事で、一つの色を選ぶのではなく、肌の色味の質を4つの属性に分け、たとえば同じ青のなかでも自分に似合う青、似合わない青を診断するといったものです。単純に色黒・色白といった話でもありません。

4つの属性の分け方は下記の通り。

春:イエローベース、淡色、清色(濁りがない)

夏:ブルーベース、淡色、濁色(白が混ざった感じ)

秋:イエローベース、濃色、濁色(黒が混ざった感じ)

冬:ブルーベース、濃色、清色

所謂イエベ 、ブルベで大別するのが有名ではありますが、項目ごとにそれぞれ別のペアが出来る関係ですね。

 

骨格は、ストレート・ウェーブ・ナチュラルの3つに分けられます。これによって似合う服のシルエットや素材感が分かります。これは実際に太っている・痩せている・筋肉が多いといったことに左右されず、骨格によるものです。細かくはググって頂くと分かりやすいサイトが沢山あります。個人的にはパーソナルカラーより自己診断しやすそうに思います。

私自身はイエベ 秋のストレートだと自己診断をしていました。結構自信はあったのですが、この属性の性質と自分のしたい方向性が比較的一致していたので客観的に見られていないのではないかという懸念もありました。またパーソナルカラーに関しては中々自分の色が相対的にどうか判断しづらく、特に「黄肌のブルベ」などという単語も出てきて分からなくなったのでちゃんと診断してみることにしました。

某百貨店でこの類の診断をしているのですが、あまりに予約が取れないので、カラーと骨格が同時に出来てメイクの相談も出来るサロンを予約しました。

 

 

サロンに行くとまずアンケートシートを渡されます。好きな色、苦手な色、よく着る服、なりたい方向性、好きなファッション雑誌、その他職業や趣味などを記入します。それを踏まえて軽く雑談をした後、カラー診断に移ります。

 

カラー診断はドレープという布を顔の下に当てて診断します。こちらのサロンはメイクは落とさずに行うスタイルでした。正直オークルのファンデに合わせたらイエベ の診断出るやろとは思わないでもないのですが、髪や瞳の色でも診断出来るとの事ですし、結局外に出る時はほとんどメイクをしている訳ですからその色に合わせた方がいいような気がしなくもないです。後述しますが、こちらのサロンは比較的実生活での運用を重視されている印象でした。服も化粧品も総取っ替えするし絶対自分のパーソナルカラーを診断してやる!と言う方はメイクを落とすタイプのサロンをお勧めします。

診断は結果から言うと完全にイエベ 秋でした!

イエベ 秋以外全然良くなかった…。ブルベは顔色が青白くなり、色によっては人相的に暗い印象になったりするのですが、イエベ 春もなんだか妙に赤黒く膨張した感じに見えました。春の色自体自分自身が着たい色でなかったのもありますが、春の時の顔色がかなり自分が忌避したい方向性だったので個人的には苦手でした。

診断を元に、自分に似合う色のドレープ群を見せて頂きます。

 

骨格診断はアナリストさんが簡単に肩や鎖骨辺り、腰の辺りを触って診断します。

こちらも結果から言うと紛う事なきストレートタイプでした!

それぞれの骨格タイプのスタイルアップする着こなしを教えて頂きます。骨格タイプよりも顔の印象が優先されるので、色や柄というよりあくまでも着こなし方や似合うシルエットがメインとなります(女優の深田恭子さんはストレートですが、ストレートタイプに似合うとされるカッチリしたスーツよりはもう少し可愛らしい服装の方が似合いますよね、という例えが分かりやすかった)。

何となく自分が自覚していた事が裏付けられ納得した面もありましたが、知らない事もあり目から鱗が落ちました。欠点をカバーしてくれる筈と思っていたギャザースカートが何となく似合わない気がする理由が分かった!

 

その後はメイクのアドバイスです。ここでも目から鱗ポイントがありました。元々自己診断でイエベ 秋だと思っていたので、現行のアイテムはそのまま使える物が多かったのですが、口紅は買い直す必要がありました。イエベ 秋の方にありがちな、イエベだからオレンジやベージュが似合う筈だけれど、元の唇の色素に負けて折角塗っても塗ってるように見えないので違う色を塗っている問題です。使っているレッド系の口紅をお見せしたのですがそれは青味が強いとの事。化粧品コーナーに書いてあるピンク系、ローズ系、レッド系という括りに惑わされていましたが、単体で冷静にみると確かに青味があるように見える。お勧めされたのはブラウン系の口紅でした。正直口紅だけをみるとかなりどぎつい印象で、「こんな色の口紅売ってましたっけ?」などと訊いてしまいましたが普通に売っているそうです(実際売ってました)。先入観があると目に入らないものですね。実際に塗ってみると、しっかり塗っている感があるのに調和する印象でした。

 

 

さて、診断が終わってこれからどうするの?というお話です。こういった診断を受けた方のレポートを拝見すると、(診断結果にもよりますが)服を買い換えた、化粧品総取っ替え、といった方がいらっしゃいますが、私がしたのはイヤリングの買い足しです。メイクで統一感が出た顔にシルバーのイヤリングはちょっと浮いてしまいそうです。これまでゴールドのイヤリングは休日に着用する少しゴツい印象のものを持っていましたが、フォーマルでも違和感のない華奢なタイプのものも購入しました。

悩ましいのはネイルの色です。これまでは比較的、色そのものは暖色であっても青味系のものが好きで集めていました。手だけであれば血色というより色白に見えれば良いし、個人的には肌馴染みより装飾している感が強くても問題ないのですが、服装との兼ね合いもあるので都度都度考えていこうと思います。

 

また、今手持ちの服の着こなしも、買い足しの面では今回の結果を考慮していきたいですね。とはいえ、普通に生活していればTPOに合わせて苦手な色を着る機会もありますし、得意な色だけでワードローブを揃えるのは無理があります。苦手な色でも気に入っている服もあります。この辺りは着こなしでカバーするかある程度の割り切りが必要です。割り切りで言うと、以前サロンに来てブルベに診断され、関ジャニの丸山さんの担当なのにイメージカラーのオレンジが合わない、と仰られた方がいらしたそうですが、その時アナリストさんは「良いじゃないですか!その時は着ましょうよ!」と仰られたそうなのでマジで信頼出来ると思いました。

結局全てを得意な要素でガチガチに固めるのは限られたシチュエーションで行えば良いので、普段はいかに苦手な要素を着こなすかという事が重要となりそうです。苦手な色の服は得意なシルエットで着たり、それ以外のアイテムは得意な色で固めるといった事で、服の幅を狭めず極端に野暮ったくならずに着ていけそうです。お話を聴く限り、その辺りは実生活であまり負担にならないように運用する事を重視しているようで、それを踏まえたアドバイスを下さいます。

それこそ私はたまにライブにいくので、自身のカジュアルダウンしづらい属性なりに溶け込める服装を考えるヒントになりました。

あとワンピースを着る場合、うっかりすると色・素材・シルエット全てが自分の苦手な型になってしまう可能性があります。可愛くて可憐系、重厚感あるキャリア系など一定の方向性に振ったデザインのものもあるため、全部苦手デザインを避け、好きなテイスト且つそれなりに綺麗に見えるものを選ぶ為にも診断する価値はありそうです。

色々と有益な情報を得られたのですが、後から考えるとあれも訊きたかったなと思いついたりするので、もし気になる方は知りたい事を箇条書きにして持っていくのも良いかもしれません。

 

パーソナルカラー&骨格診断、結果的には自己診断通りではあったけれど、客観的な裏付けが出来て凄く精神的にも良かったです。アナリストさんは褒めてくれるし、これまでの不安や疑問も解消されました。と同時に低身長と丸顔の先入観って強固よねと思ったり(顔はちゃんと診断してないけど童顔ではないらしいです。童顔が眼中にないとか不美人を遠回しに表現する場合もあるって知ってるゾ)。そういった事ももしかしたら少しの工夫やそれに伴う振る舞いで変わってくるのかも知れません。

兎に角私が言いたいのはパーソナルカラー&骨格診断は自己肯定感が得られるという事です。

秋冬は私にとって難易度が低そうだったので次の春夏が正念場。爆買いする為に精々働いて経済回していく所存です。

高嶺の花 最終回が思ったよりしっくり来なかった件 (ネタバレ有り)

先日最終回を迎えたドラマ「高嶺の花」。石原さとみはいつだって美しかったし、自転車少年は毎回ほっそりしていった。展開も読めなくて、中盤以降から兵馬様や千秋ちゃんといった主要な登場人物が投入されるのにも新しみを感じ、毎週毎週とても楽しみに視聴していました。

最終回もこの広げに広げた大風呂敷をどう畳むのか気になっていましたし、見終わったら綺麗に纏まったなという印象で満足感がありました。

しかし、どことなく期待外れというか物足りなさを感じている部分もあります。登場人物一人一人の結末としてはこれ以上ない気がするし、他の良い結末が思いつくわけでも無いのですが、この引っかかる感じは何だろうという事を中心に、最終回の感想を書いていきます。

タイトルとここまでの文章でお察しいただいていると思いますが、手放しで褒める記事ではないので苦手な方はここで読むのをやめて下さると幸いです。

 

 

 

 

 

①結末についてのネタバレ

一応ご覧になられていない方の為に、結末をネタバレ致しますと

・ももちゃんは月島流次期家元になるかと思われたが、亡き母の生前の華道の話を知るなどし、新流派を立ち上げる事となる。その後プーさんと結婚し公園みたいなところで生け花教室を始める。

・宇都宮龍一は、市松から次期家元となるももとの結婚を打診されるも、高笑いをしながら高速道路を車で爆走。かと思いきや何故か牧場の様なところで馬を飼育し一攫千金を狙う。

・ななは宇都宮龍一の後を追い牧場へ。龍一に受け入れられハッピーエンド

・もも・ななが共に月島流を離れた後、ルリ子は宣伝強化等を打診、市松との対話により結局一番月島の事を考えていたのはルリ子だったのでは、と認められる。からのもう一人産む宣言。

・運転手の高井は月島に残り市松と和解

・自転車少年が帰還。プーさんやもも、街の人々や同級生に迎え入れられ、とり囲まれてひたすら「お帰り」と声をかけられるというエヴァみたいな演出。

という事になりました。

 

SNSなどで見かけた他の方の感想とざっくりしたフィードバック

色々と盛りだくさん、且つツッコミどころというか急展開もあったのにまさかの全員ハッピーエンドでまとまったので、他の人の感想が気になって検索してみたところ、いくつか手放しで褒める論調ではない気になるコメントがありました。

・野島脚本でこのハッピーエンドがまさにどんでん返し

・全員が誰かに認め愛され平凡に生きることそのものがもはや「高嶺の花」な生き方ということかもしれない

・ティーカップと湯呑みの譬え話から垣間見える女性は守られる存在という意識が垣間見える言説、男達が「冒険だ」といいプーさんと一緒に山梨まで崖の花を摘みに行き女達はそれを見送り待つ側という構造や、結局女(もも)は庶民の中に落ち着いた方がいいといった結末から昭和のおっさんの感覚を感じる

 

かなりうろ覚えで細かい言い回しは異なるかもしれませんが、こういった要旨だったと思います。

一番上の論旨に関しては、私は野島作品を観てきていないのでドラマ自体の評価には全然影響しない感じですが、確かに野島ファンとしては感慨深いのかなと思います。

二つ目については、そういった見方が出来るのか!と思いましたがだいぶメタいアプローチだなと思いました。

三つ目は、何となく分からなくもない気がしたのですが、完全に同意とは言い切れません。ティーカップと湯呑み云々は女性だけに限らないし、男性が冒険に出かける事自体を否定する気もない(男の友情絡みでいうと、正直商店街のメンバーが山梨に出掛ける件よりも市松と高井が和解する場面の方がグッときましたが)。

庶民の中で平凡にというのも、主語が女性というよりはあくまでももとプーさんだから商店街で暮らす事を選んだ、という事だと思います(いや、思いたい)。でも、確かにももちゃんが「こっちの私」だけになって庶民的な生け花教室をやっている結末は何となく物足りない。その辺に今回の引っ掛かりの原因がありそうです。

 

③結局「私はお華」とは一体なんだったのか?

最終回のクライマックスと言えるももが新流派を立ち上げるために花を生ける場面での語り、ももとプーさんの関係性(および親世代の人々の生き様や思い)を例えているのは分かるのだけど、実はあまりピンと来ませんでした。このドラマは華道についての物語では無いし、そもそも私は華道について何も知らないのですが、そこで語られていた「花は太陽に向かって」という思想に素朴すぎる印象を持ちました。ある意味原点回帰的な考え方なんでしょうが、それは形式美を極める華道という枠組みでやる必要ある?と思ってしまいました。ただその場面で生けられた作品は圧倒的に美しくて、勿論その中心にいるももの憑き物が落ちたかのような穏やかな笑顔が素晴らしすぎたのもあるけれど、それが無くとも月島流とは異なる世界観と美に強度があったので、その新しい流派についてどう描かれるか期待を持って観ていました。

結局、新流派については詳しく描かれず、プーさんと結婚したももが公園みたいなところ(あの場所借りるのにまあまあお金かかりそうよね、自治体に申請したら意外と行けるのか?)で市井の人に生け花を教える場面があるのみで拍子抜けしました。このドラマは「もう一人の自分が見えない」とか罪悪感云々とか、割と自分が自分の行動に納得する為に脳内で完結すべき事を、華道というファクターを通して皆が共有する概念のように描いているのが特徴だと思っていたので、何故ここにきて一番思想体系としてガチガチに固まっていないといけないはずの新流派の理論が見えないことをするんだろうと思いました。結局「私はお華」とは?

 

④権威から逃走して幸せになるって割とありきたりじゃない?

結末としてももとプーさんが別れて欲しかったわけでも、プーさんが月島に婿入りして欲しかった訳でもないので、話の流れとしては別に不満はありません。なのでこの違和感の正体は「ノー権威感」に対してのもののような気がします。何の後ろ盾もないとはいえ、新流派の初代家元という貫禄を感じる描き方であれば良かったのかもしれません。権威や格式なんか無くても、寧ろそこから逃れることによって人と互いに認め認められ周囲と暖かな交流を持つ事が出来る、それが幸せ。或いはそういった中に本当の強さが宿る。その様な結末は割とありふれていますよね。その当たり前だからこその大切さを描きたかったんだという事であれば、単純に私好みの結末ではなかった、という事になるかと思いますが。

 

などと色々御託を並べましたが、結局「石原さとみには最後まで分かりやすい高嶺の花でいて欲しかった」という事ですね。凄く美人だけど気さくで蓮っ葉な物言いをする近所のお姉さんという「こっちの私」は、確かな実力と立場、そして美しい所作を持った「あっちの私」が居てこそ輝く様な気がします。というか和服を着て権威を振りかざして「天才の人生を賭けた戯れ」に興じるさとみ様が観たかった。

 

最後に、これは私が見逃しただけかも知れませんが解けなかった謎を。

・コロッケと対話する妻は結局何が原因で夫と口を利かなくなったのか

・兵馬様の家にいた、客人(もも)の入浴の世話までしてくれるあの付き人の正体は

特に二番目が地味に気になるので、どなたか親切な方は教えて下さい。

 

 

補足

・1クール通して視聴して思ったのが、総じて過剰な作品だったなという事。1話の朝食に納豆ご飯を食べながら「ワンチャーン」という場面は、ももの味覚障害が治ったというところを語らずして分からせる引き算の作品かと思わせたので、「カルテット」や「最高の離婚」を手掛けた坂元裕二的世界観かと思いきや、どんどん足し算・掛け算になっていった印象。

ももの台詞では事あるごとに花の例えがあったり、その場にいなかった別の人物が前の場面で使われたのと同じ表現(掃き溜めに鶴とか)を繰り返す感じだったり、プーさんのホワイトボードお説教芸だったり(正直このノリは苦手だった。途中までプーさんが達観し過ぎて得体が知れないのでマジで宗教SFになるのかと思った)、あと野島さん割とトラックの前に飛び出させがちな所とか、振り返ると随所に昭和を感じる。

・最後の公園で生け花教室の場面については、上記文面では文句を言ってしまったけれど、「風間ももにございます」の名乗りはゾクッとした。風間→フー→プー、なんだろうけど、月島と風間で風月になるの計算していたのかと少し思いました。このドラマは比較的名が体を表す名付けが多くセンスがあるなと感じています。市松とかめっちゃ格好良い名前だけど、華道家なら戸籍名の他に歌舞伎の様に世襲する名前があると思うのでその辺りはリアルではないのね、と思ったり。ちなみに、宇都宮龍一が馬の世話をするようになった理由として兄・兵馬の名前の中に馬がはいっているから、という考察があったので、皆様凄く考えているなと思いました。