思念が奔逸中

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複製技術は表現者にとっての福音か

先日、絵を描かれる方とお話をする機会があったのですが、その中で新鮮に感じた言葉がありました。

「自分の絵が印刷されると嬉しい」「印刷される事によって世の中に羽ばたいていける」というものです。

 

多くの人がそうであるように、本物よりも複製を遥かに多く消費し、普段「作品」を作るような方とお話をする機会がなく、ざっくりいうと複製を作る側でもある私にとって、原画=オリジナルこそ価値があるという意識があったからです。

ドイツの文化評論家 ヴァルター・ベンヤミンの著書に「複製技術時代の芸術」(1936年)という評論があります。この著書の中に「アウラ」※1という概念が出てきます。

噛み砕いて言うと、アウラとは「いま、ここにある」という事によって立ち上がる一回性のイメージ、つまりオリジナルを目の前にする事による尊さ・唯一無二性による「礼拝的価値」の事を指します。

そして作品が人の目に触れる機会が増える事により、相対的に「礼拝的価値」が減る、というのがベースの考え方となります。

ベンヤミンは、複製技術によって芸術の権威が下がり、大衆へ向け解放され批評や分析の対象となる事で「展示的価値」が生まれるとし、新たな芸術の捉え方が展開される事に希望を見出していたようです。

 

この論が頭の片隅にある為、私は複製技術の恩恵を受けるたびに感謝しながらも、やはり希少なオリジナルにはアウラという価値を感じているのです。

また、絵画の分野に関しては特にこの考え方を当てはめてしまいがちでした。

何故だろうと考えたのですが、絵画は「オリジナルは本物、複製は偽物」という様に分断して捉えられやすい性質があるのではないでしょうか。一つの作品に対するオリジナルの数が一つきり、もしくは限りなく少ない、再現する事を前提としていない、という事に関係がありそうです。※2

 

たとえば音楽であれば、正解とされる楽譜なり本物とされる演者なりで複数回公演を行う事でオリジナル自体の数が増えます。

また、再現の質という側面からを考えると、オリジナルと複製のトータル的な価値はあまり差がないような気がします。音楽のオリジナル(生演奏)には、実際に生で聴いた時の音圧や、その場限りのアレンジなど、正にそれぞれの公演毎の一回性のアウラが存在しますが、反対に言えば演奏ミス等、作品としての「正解」とは異なる要素が含まれやすいという事でもあります。一方複製されたメディアには、ある段階での「正解」を具現化する為にコンディションを整え、何度もやり直した上での「正解」が封じ込められています。もはやオリジナルとは何なのかという話になってきますが、結局の所、生演奏の圧倒的なアウラを享受する事の価値と、作品としての最高到達点をパッケージされた尊さ+いつでも好きな時に再生出来る複製ならではの利便性+≒アウラをうまく享受出来ないリスク(思ったより楽しめなかったとか行くの面倒とか)の回避性を比較すると、トータルの価値は同じくらいになりそうです。

 

文学の再現性の高さは更に顕著です。何をどこまで文学に含めるのかという問題もありますが、仮に「文字を書き起こしたもの」にすると、全く同じテキストを打ち同じフォントを指定するだけで再現できてしまいます。※3なので、文学においてオリジナルと複製の差異は無いにも等しいと考えます。(そもそもオリジナルって何?生データのアウラは凄いのでしょうか?※4)昔の文豪の直筆原稿やゲラには確かにアウラがありますが、文学としてのアウラというよりは一種のフェティシズムの様な気がします。作品として計算しながらもパッションを感じさせる文章を書くにせよ、理性を吹き飛ばした放縦な文章を書き散らして圧倒するにせよ、そういった文学としてのアウラは言葉自体で表現されるのであって、筆圧の強さや筆跡の掠れ具合ではないと考えるからです。※5

言語学の用語でシニフィアン(記号表現・能記)/シニフィエ(記号内容・所記)という概念があります。※6

この用語を拡大解釈して考えを進めると、シニフィエ自体が特定の誰かのものではない為、芸術ではシニフィアンで差異を出していく、という事になります。文学でも文字をどう組み立てるかというシニフィアンで差異が生まれます。が、韻を踏むなどのテンポ感は音楽に通じますし、フォントやレイアウトを生かした作品は絵画的なアートに通じます。例外※7はありますが文学においては、どのように語るか=シニフィアンよりも何が語られているか=シニフィエが本質だと捉えられる傾向があります。そもそも「文字に起こす」という行為が、(対象が限定的であっても)シニフィエを他者へ伝播させる、という目的を持っている訳ですから、一回性のアウラとは逆のベクトルです。

翻って音楽や絵画などは、シニフィアンを享受する事が主眼となるものです。つまり、シニフィアン性が高い芸術ほどアウラが宿りやすい、といえるのではないでしょうか。

 

ここで冒頭に戻り(長かった)受け手側としてはオリジナルにアウラを求めやすい芸術の分野、送り手としてはどうなのか、というお話になります。※8

人それぞれのスタンスによる事ですし、作品を作っていない立場からの憶測ではありますが、送り手側はアウラの事とかあまり考えてないですよね。一つ一つの作品は確かに異なりますが、受け手側に比べて送り手側は自分自身なので圧倒的に再現性のある立場です。

そしてやはり表現して発表する以上、誰かに伝わってほしいと考えているのではないでしょうか。特別に功名心とかがある訳ではなくても、発信したものが伝播し、能うかぎり何かの役割を果たしているというのは嬉しい事なのかもしれません。

 

いつも作品を受け取り消費する側の視点からすると、複製技術は便利※9で恩恵を受けまくっておりとても有り難い発明だと思っていたのですが、同時に作品を作る側の事も幸せにしているのであれば、本当に複製技術万歳だなぁと思った出来事でした。

 

※1 いわゆるオーラに近い概念

※2 ここでいう絵画に版画やデジタル画、前衛芸術は含みません。彫刻などは含みます

※3 現代では同じものを享受出来るかどうかに関わりがあるのは、文脈や受け手側の解釈です。

※4 そもそもオリジナルが何かを明確に定義できていない時点でオリジナルの数を数えられないので論が破綻しています

※5 パッションが無くても楽器の弦が切れる事もあれば、有っても切れない時もある、みたいなもの

※6 林檎であれば「林檎/リンゴ/りんご」という文字の形や「RINGO」という音がシニフィアン、林檎やApple、pommeなどが表している概念がシニフィエ

※7 個人的には、円城塔氏の作品がテキストを用いた表現を突き詰めていたり、物語性より語感の印象が強く、シニフィアン性が高いと思います

※8 小説家や漫画家の人が多くの人に読んで欲しい!と思っているイメージは容易に出来ますが、油絵や水彩画を描いている人が見て!と思っているのは何故かイメージがつきにくいです。

※9 複製を所有する事で何度も自分が楽しめるだけでなく、過去の作品を見ることができるという保存の観点からも。物理的に破損や紛失した絵画や彫刻、過去の人物のパフォーマンスなど。