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高嶺の花 最終回が思ったよりしっくり来なかった件 (ネタバレ有り)

先日最終回を迎えたドラマ「高嶺の花」。石原さとみはいつだって美しかったし、自転車少年は毎回ほっそりしていった。展開も読めなくて、中盤以降から兵馬様や千秋ちゃんといった主要な登場人物が投入されるのにも新しみを感じ、毎週毎週とても楽しみに視聴していました。

最終回もこの広げに広げた大風呂敷をどう畳むのか気になっていましたし、見終わったら綺麗に纏まったなという印象で満足感がありました。

しかし、どことなく期待外れというか物足りなさを感じている部分もあります。登場人物一人一人の結末としてはこれ以上ない気がするし、他の良い結末が思いつくわけでも無いのですが、この引っかかる感じは何だろうという事を中心に、最終回の感想を書いていきます。

タイトルとここまでの文章でお察しいただいていると思いますが、手放しで褒める記事ではないので苦手な方はここで読むのをやめて下さると幸いです。

 

 

 

 

 

①結末についてのネタバレ

一応ご覧になられていない方の為に、結末をネタバレ致しますと

・ももちゃんは月島流次期家元になるかと思われたが、亡き母の生前の華道の話を知るなどし、新流派を立ち上げる事となる。その後プーさんと結婚し公園みたいなところで生け花教室を始める。

・宇都宮龍一は、市松から次期家元となるももとの結婚を打診されるも、高笑いをしながら高速道路を車で爆走。かと思いきや何故か牧場の様なところで馬を飼育し一攫千金を狙う。

・ななは宇都宮龍一の後を追い牧場へ。龍一に受け入れられハッピーエンド

・もも・ななが共に月島流を離れた後、ルリ子は宣伝強化等を打診、市松との対話により結局一番月島の事を考えていたのはルリ子だったのでは、と認められる。からのもう一人産む宣言。

・運転手の高井は月島に残り市松と和解

・自転車少年が帰還。プーさんやもも、街の人々や同級生に迎え入れられ、とり囲まれてひたすら「お帰り」と声をかけられるというエヴァみたいな演出。

という事になりました。

 

SNSなどで見かけた他の方の感想とざっくりしたフィードバック

色々と盛りだくさん、且つツッコミどころというか急展開もあったのにまさかの全員ハッピーエンドでまとまったので、他の人の感想が気になって検索してみたところ、いくつか手放しで褒める論調ではない気になるコメントがありました。

・野島脚本でこのハッピーエンドがまさにどんでん返し

・全員が誰かに認め愛され平凡に生きることそのものがもはや「高嶺の花」な生き方ということかもしれない

・ティーカップと湯呑みの譬え話から垣間見える女性は守られる存在という意識が垣間見える言説、男達が「冒険だ」といいプーさんと一緒に山梨まで崖の花を摘みに行き女達はそれを見送り待つ側という構造や、結局女(もも)は庶民の中に落ち着いた方がいいといった結末から昭和のおっさんの感覚を感じる

 

かなりうろ覚えで細かい言い回しは異なるかもしれませんが、こういった要旨だったと思います。

一番上の論旨に関しては、私は野島作品を観てきていないのでドラマ自体の評価には全然影響しない感じですが、確かに野島ファンとしては感慨深いのかなと思います。

二つ目については、そういった見方が出来るのか!と思いましたがだいぶメタいアプローチだなと思いました。

三つ目は、何となく分からなくもない気がしたのですが、完全に同意とは言い切れません。ティーカップと湯呑み云々は女性だけに限らないし、男性が冒険に出かける事自体を否定する気もない(男の友情絡みでいうと、正直商店街のメンバーが山梨に出掛ける件よりも市松と高井が和解する場面の方がグッときましたが)。

庶民の中で平凡にというのも、主語が女性というよりはあくまでももとプーさんだから商店街で暮らす事を選んだ、という事だと思います(いや、思いたい)。でも、確かにももちゃんが「こっちの私」だけになって庶民的な生け花教室をやっている結末は何となく物足りない。その辺に今回の引っ掛かりの原因がありそうです。

 

③結局「私はお華」とは一体なんだったのか?

最終回のクライマックスと言えるももが新流派を立ち上げるために花を生ける場面での語り、ももとプーさんの関係性(および親世代の人々の生き様や思い)を例えているのは分かるのだけど、実はあまりピンと来ませんでした。このドラマは華道についての物語では無いし、そもそも私は華道について何も知らないのですが、そこで語られていた「花は太陽に向かって」という思想に素朴すぎる印象を持ちました。ある意味原点回帰的な考え方なんでしょうが、それは形式美を極める華道という枠組みでやる必要ある?と思ってしまいました。ただその場面で生けられた作品は圧倒的に美しくて、勿論その中心にいるももの憑き物が落ちたかのような穏やかな笑顔が素晴らしすぎたのもあるけれど、それが無くとも月島流とは異なる世界観と美に強度があったので、その新しい流派についてどう描かれるか期待を持って観ていました。

結局、新流派については詳しく描かれず、プーさんと結婚したももが公園みたいなところ(あの場所借りるのにまあまあお金かかりそうよね、自治体に申請したら意外と行けるのか?)で市井の人に生け花を教える場面があるのみで拍子抜けしました。このドラマは「もう一人の自分が見えない」とか罪悪感云々とか、割と自分が自分の行動に納得する為に脳内で完結すべき事を、華道というファクターを通して皆が共有する概念のように描いているのが特徴だと思っていたので、何故ここにきて一番思想体系としてガチガチに固まっていないといけないはずの新流派の理論が見えないことをするんだろうと思いました。結局「私はお華」とは?

 

④権威から逃走して幸せになるって割とありきたりじゃない?

結末としてももとプーさんが別れて欲しかったわけでも、プーさんが月島に婿入りして欲しかった訳でもないので、話の流れとしては別に不満はありません。なのでこの違和感の正体は「ノー権威感」に対してのもののような気がします。何の後ろ盾もないとはいえ、新流派の初代家元という貫禄を感じる描き方であれば良かったのかもしれません。権威や格式なんか無くても、寧ろそこから逃れることによって人と互いに認め認められ周囲と暖かな交流を持つ事が出来る、それが幸せ。或いはそういった中に本当の強さが宿る。その様な結末は割とありふれていますよね。その当たり前だからこその大切さを描きたかったんだという事であれば、単純に私好みの結末ではなかった、という事になるかと思いますが。

 

などと色々御託を並べましたが、結局「石原さとみには最後まで分かりやすい高嶺の花でいて欲しかった」という事ですね。凄く美人だけど気さくで蓮っ葉な物言いをする近所のお姉さんという「こっちの私」は、確かな実力と立場、そして美しい所作を持った「あっちの私」が居てこそ輝く様な気がします。というか和服を着て権威を振りかざして「天才の人生を賭けた戯れ」に興じるさとみ様が観たかった。

 

最後に、これは私が見逃しただけかも知れませんが解けなかった謎を。

・コロッケと対話する妻は結局何が原因で夫と口を利かなくなったのか

・兵馬様の家にいた、客人(もも)の入浴の世話までしてくれるあの付き人の正体は

特に二番目が地味に気になるので、どなたか親切な方は教えて下さい。

 

 

補足

・1クール通して視聴して思ったのが、総じて過剰な作品だったなという事。1話の朝食に納豆ご飯を食べながら「ワンチャーン」という場面は、ももの味覚障害が治ったというところを語らずして分からせる引き算の作品かと思わせたので、「カルテット」や「最高の離婚」を手掛けた坂元裕二的世界観かと思いきや、どんどん足し算・掛け算になっていった印象。

ももの台詞では事あるごとに花の例えがあったり、その場にいなかった別の人物が前の場面で使われたのと同じ表現(掃き溜めに鶴とか)を繰り返す感じだったり、プーさんのホワイトボードお説教芸だったり(正直このノリは苦手だった。途中までプーさんが達観し過ぎて得体が知れないのでマジで宗教SFになるのかと思った)、あと野島さん割とトラックの前に飛び出させがちな所とか、振り返ると随所に昭和を感じる。

・最後の公園で生け花教室の場面については、上記文面では文句を言ってしまったけれど、「風間ももにございます」の名乗りはゾクッとした。風間→フー→プー、なんだろうけど、月島と風間で風月になるの計算していたのかと少し思いました。このドラマは比較的名が体を表す名付けが多くセンスがあるなと感じています。市松とかめっちゃ格好良い名前だけど、華道家なら戸籍名の他に歌舞伎の様に世襲する名前があると思うのでその辺りはリアルではないのね、と思ったり。ちなみに、宇都宮龍一が馬の世話をするようになった理由として兄・兵馬の名前の中に馬がはいっているから、という考察があったので、皆様凄く考えているなと思いました。