思念が奔逸中

情報発信の体裁で雑念のみ垂れ流します

小賢しい人間が選ぶ世界観が充実したキャラクター3選

ちょっと前にポムポムプリンがゴールデンレトリバーの男の子だという事を知って衝撃を受けました。世間では「プリンの妖精だと思ってた…」という意見と「そんな事も知らなかったの⁉︎」というガチ勢の皆様の意見が溢れたようなのですが、わたしは第3の意見です。なんだ、ただのベレー帽を被った犬か。

 

ポムポムプリンがプリンの妖精であろうが犬であろうが見た目の可愛さにはなんの影響もないはずなのに何故ガッカリしたのでしょうか。

考えてみたのですが、そういえばそもそも私、キャラものにはまった事があまり有りませんでした。※1

キャラものにそこまでハマらなかった理由としては、愛らしい見た目のグッズで生活空間を満たす事が何となくしっくり来なかった、という所です。しかしそれ以外に考えられるのは、私が物語消費したいタイプの人間だからという理由かもしれません。

キャラクターとして好きかどうかは別として、リラックマには背中にジッパーが付いていて中におじさんが入っているとか、くまのプーさんのキャラクターは実は生身の動物ではなくクリストファー・ロビンのぬいぐるみだったとか、絵柄が同じせいで動物のキャラクター(仮)が動物を飼っていたりぬいぐるみを持っていてよくわからない世界観になっていたり、という観念が捻れているパターンは割と好きです。つまり設定厨。キャラもの消費に向いていないタイプの人間ですね。

そんな私が、設定を含めて好きなキャラクター3点を挙げてみます。

 

 

ムーミン

https://www.moomin.co.jp/character

有名どころのムーミン。とりあえず家系図が複雑っぽい。私はスナフキンが公園の禁止看板をすべて引っこ抜いたエピソードが好きです。※2

 

 

KIRIMIちゃん.

https://www.sanrio.co.jp/character/kirimichan/

鮭の切り身が顔になっている衝撃的なビジュアル。色々な魚や豚肉や加工食品のキャラクターがいます。やるやんサンリオ。Twitterアカウントは中々哀愁溢れるツイートが多くて面白い。

 

 

コジコジ

http://cojicoji.site

さくらももこ先生によるキャラクター。子どもの頃コジコジ風水という本※が家にあって存在は知っていましたが、こんなにぶっ飛んだ世界観だと最近知りました。コジコジとは種族や性別などの設定はなくコジコジというただの存在なのですが、一応は宇宙の子、くらいの認識をしています。可愛らしい見た目とゆるいスタンスですが急に真理を突いてくるあたりの哲学みが凄い、というのが特徴です。諸々、概念やら観念周りの存在っぽさが感じられます。色合いもサイケな感じに見えてきました。

 

 

三つの共通点としてはまず、メインのキャラクター以外の仲間たちの数が多いことです。KIRIMIちゃん.以外は元々が物語の作品なので当然なのかも知れませんが。

あとは全体的に性格がゆるいですね。頑張って何かやろうみたいなものがない。ムーミンは少し違うかもしれませんが、妙にテンションが高かったり押しつけがましい感じはありません。

私が子供のころ好きだったキャラクターはたれぱんだこげぱんだったので、昔から覇気のないキャラクターが好きな傾向は変わりません。

もう一点、ビジュアルとしてはごく一般的に可愛い部類と言えるのではないでしょうか。※4

そして比較的シンプルな顔立ちをしています。顔の余白が多い。塩顔。愕然としました。芸能人とかだったら薄めの顔が好きだなと思っていたんですが、好きな顔の系統って人間もキャラクターも共通するんですね。

マイメロさんの顔濃いなあと以前から思っていたのですが、私は女性に甘いので、有名人でも薄め以外の系統の人にも好感を持つ中、そういえば睫毛盛り盛りのギャル系タレントには興味を持って来なかったなと思い至りました。

 

現実の生活では、他人の顔の造形だけで人を判断することはありませんし、芸能人や有名人を応援するにせよ容姿だけが理由になる訳ではありませんが、キャラクターとなると結局見た目が最重要なファクターとなりますから、やはり圧迫感のないほのぼのとした容姿で和みたい心理があるのかもしれません。

 

 

※1 ここでいうキャラクターとはとりあえず、リアルな人間以外でグッズ展開されているもの、という事にします

※2 欧米のキャラクター造形の可愛さ基準は日本のものと感性が違うなとは思っているのですが、北欧のものはたまに「君はさすがにアウトだよね」というレベルのキモカワには回収しきれないキャラクターが現れますよね

※3 間取りの風水的な点数を算出できるキャラクターのカード付き

※4シンプソンズとかスポンジボブ系の見た目がどうしても可愛いと思えないのですが、あの手のキャラクターはそれこそ物語が面白いという事で人気なのでしょうか

 

メイク講座を受ける前後の雑感

私がされて嫌な事の一つに「化粧をしない人間に化粧の事をとやかく言われる」というものがあります。言われた対象が自分ではなくてもなんとなく嫌な気持ちがするものです。余程TPOに外れた化粧をしているのではない限り、ただ化粧をした顔を見るだけで化粧をする主体としての労力を知らない者が偉そうに口に出して評価をする、という構図が気に入りません。非常に拗らせていると自分でも思います。

 

 

先日、職場の都合で某社の社会人向けのメイク講座を受けました。

元々新入社員向けの講座だったのですが何故か20代の社員も参加する事になり行かざるを得なくなった、という経緯です。

行く前は嫌過ぎて周りの色々な女性に愚痴っていたのですが、面倒だという事は理解されてもめちゃくちゃな嫌がりようにはそれほど共感は得られませんでした。まあ面倒だけど数時間我慢すれば良いじゃん、もしかしたら有益な情報もあるかもしれないし、というわけです(実際ちゃんと受けましたよ)。

確かに有益な情報という点は同意できるのですが、おそらく私の中にある種の自負というか持論のようなものがあるから反発心が生まれたのだと思います。

それは「人の見た目はその人が選び取ってきたものだ」という考え方です。

私自身、特別メイクが上手いわけでもなければ、顔立ちが整っているわけでもありません。しかし、だからこそ大して恵まれていない容姿なりに確立してきたものがあります。

人は元々生まれ持った容姿と自身の性格やこうありたい・こう見られたいというイメージが得てして一致しないものです(完全に一致している人はめちゃくちゃ幸運だと思う)。

そのギャップをどのように埋めるか、どこまで元々の素材を生かすかというバランスや、どの方向性に見た目を寄せるか、という事はその人自身が選択してきた結果だと思うのです。メイクに限らず服装や髪型、さらに展開するとピアスやタトゥー、整形などの身体改変まで。もちろん、そういったものに労力を割かない、という選択も有りです(清潔感とTPOのみ配慮した服装に見える方でもとても有能で人格者な方を知っています)。

ご自身で化粧をされる方はご承知の事と思いますが、人の顔というものは千差万別です。肌質やパーツの形状、それらの色味、眉毛や睫毛の生え方、それらが異なる上に目指す方向性が異なれば、使うツールや取るべき方法も異なる事は自明だと思います。これは元の顔の条件や化粧後の顔がどのような印象を他者に与えるかという点だけでなく、単純に作業における機能面においても言える事です。各々の手の器用さに加え、顔の条件によって使いやすい・より効果の出やすいツールは異なってきます。

化粧を始める年齢に個人差はありますが、(新入社員と一緒にされて文句を言いたくなる年齢ですお察しください)子どもが小学校に入学したかと思ったら中学を卒業するかしないかという年月、他ならぬ自分の顔に化粧を施してきたわけです。足し算をしていたと思ったら因数分解、大きなかぶを読んでいたかと思ったら魯迅とかを読むようになった年月です!

とはいえ、敢えて大人が童話を読んで学びがあるように、せっかくプロが来てくれるのであれば学ぶ事も大いにあろう、という気持ちでメイク講座を受けて来ました。テーマの社会人向け=新入社員向けという点にミスマッチはありますが、各々の顔の条件の違いをどの程度対応してくるのか、という点にも大いに興味がありましたし。

(ここからが本題だと思われるかと思いますが、私の言いたいことは大体ここまでで書き終えました。)

(結局、化粧品某社や人事担当が悪い訳ではないのよ…)

 

受けてみた結果の感想 その他

・講師の方は親しみやすい印象。あくまでも社会人向け、特に新入社員向け、というテーマであるという前提でお話を進めて下さいました。

・メイクオフ、ベースメイク、ポイントメイクで1/3ずつ時間を割く構成

・女性のメイクやファッションなどのトレンドも教えていただけます。細かい年ごとのトレンドではなく数年単位のざっくりとした傾向ですが自分の体感ともそれほど乖離はありませんでした。

・化粧品の扱いなどは初めて知ることも多々あり参考になりました。

・下地、ファンデーション、チーク、リップ、アイカラー、アイライナー、アイブロウは色が選べるのである程度自分に合ったものを選ぶ余地がありました。一方いつもやっている工程や使っているアイテムが無い場合は諦めざるを得ません。

 

全体の総括として

ポイントメイクなどは自由度のある構成だったので、ある程度いつも自分がしている化粧に寄せることが出来ます。

ただ、前述したように作業する工程が限られているので、個人差もありますが結構物足りなく感じる事もありそうです(社会人向けなので付けまつ毛とかは敢えて省いているのでしょうが)。

またベースメイク系も種類があるとはいえ、肌質や肌色に合う合わないがあるので、若干の違和感が出る可能性もあります。

上記のことから総じて言えることは、メイク講座を受けた直後ではなく、翌日からの自宅でのメイクからが本番という事です。

翌日自分の使っているファンデーションで、習ったような方法のベースメイクをしたら化粧ノリが若干良くなったような気がしなくもないような…?

使い慣れたアイテムを用い、講座で聞いた話を元にしながらも、こだわりのある工程は自分に適した方法を加えながら施すことで、学んだ効果がわかるのではないでしょうか。

言動の行間を想像で埋める事とトリプルファイヤーの歌詞について

前回、このブログを始めたきっかけとブログタイトルにある「思念が奔逸する」という事について、つらつらと記事を書かせていただきました。

 

malily7.hatenablog.com

 

簡単に言うと、「風が吹けば桶屋が儲かる」という超理論を展開したり、その論理展開の一連の流れを説明せず、「風が吹く」とか「桶屋が儲かる」という部分のみを断片的に発したい、という極めて自分勝手なコミュニケーション上の欲求の話です。

この様な欲求を持ち合わせているにも拘らず、社会生活に慣れきってしまうと、どうしても他者のそれには厳しい目を向けてしまう時があります。

 

以前、職場で少し他人と変わった思考回路の持ち主が居て「野外に置くチラシが風で飛ばない様にするための文鎮を買ってくる様頼まれたのに、家庭で製菓を行う用のゼリーカップを買ってきた」という事件が起きました。

当然頼んだ社員は憤慨しましたし、未だに理由は分からないのですが、彼の中で何らかの風が吹いたのでしょう。

強いて関わりがありそうなのは頼んだ時にその社員が言った「中国の置物みたいなの買うなよ、普通の銀色のやつでいいんだから」という一言です。「中国の置物みたいなの」というのは、本格的に書道を嗜まれる方が使っていそうな、龍などを象った青銅器風の文鎮の事だと推察するのですが、彼は分からなかったのかも知れません。きっと買い物中にも色々あって、彼の思考の中では風が吹いた事によって眼病が蔓延したり、それによって猫が乱獲されたりしたのでしょう。その結果、色だけは銀色のゼリーカップを買ってきたのです。

正直なところ、思考の流れとして文鎮とゼリーカップが繋がった事は良いとしても、実際に購入するかどうがは別問題で、どこかのタイミングでこの選択はおかしいと気が付かなかったのか甚だ疑問ですし、(彼はそれ以外にも事件を起こしているので)あまり擁護する気にはなれないのですが、人の思考は他者からは計り知れないと実感する機会ではありました。

職務中において、色々な状況や人の精神状態がある中で、何故このような突飛な言動をするのか、敢えて掘り下げて考える時間や労力を割く必要も義務もありません。しかし、自分の心に余裕のある時にはその言動の行間を想像で埋めてみる優しさを持ってみても良いのかも知れません。

 

このような、言動と言動の行間、計り知れない思考の流れを可視化(可聴化?歌詞化?)した作品にトリプルファイヤーの「野球選手になるために」という曲があります。

ロックバンドのボーカルでありながら大喜利企画で優秀な成績を残したり、タモリ倶楽部で特集が組まれたり、深夜ドラマに主役級で出演した吉田靖直さん擁するトリプルファイヤーです。

トリプルファイヤーの歌詞はいずれも着想やその言葉での表現の仕方が独創的なのですが、「野球選手になるために」は着想が分かりやすい構造で表されています。

タイトルの通り、野球選手になるためにすべき事が歌詞になっているのですが、その一つ一つの因果関係が論としては正しいながらも、蓋然性が低く奇妙な方向で連なっていきます。正に「風が吹けば桶屋が儲かる」までの思考を、一つ一つトレースしたような構造です。

m.youtube.com

現実社会で突飛な行動をされたら実害があるためイライラしそうですが、自覚的に作品に落とし込まれると非常に味わい深いです。(尤も作品であれば脈略のない文脈を想像で埋める事が寧ろ楽しかったりします。作詞者のセンスが先鋭的な事の証明のような気すらしてくる)

「野球選手になるために」すべき事を曲と同じ要領で連想し続けていったら、人によって全くバラバラな着地点になりそうです。個人的には、この曲の着地点は中々の世間知があって嫌いではないです。皆さんはこの結果予想できましたか?

 

 

 

 

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ブログを始めたきっかけとブログタイトルについて

子どもの頃から脈略のない話し方をして、よく分からないという反応をされて来ました。頭の中には常に雑念と言う名の思考が流れ、相手の与り知らない事情や持ち得ない知識を提示しないまま話し始めてしまうのです。自分の頭の中では繋がっている事象が、相手にとってはかけ離れた二つの点でしかなかったりするわけですから、当然訳がわからない事を言っている、という顔をされるのですが、子どもの頃は何故自分の方が立場が悪くなるのか分からず不服でした。

流石にそのコミュニケーションの取り方は不味かろうと、徐々に徐々に矯正をしてきて、最近は幾分マシになったのではないかと思っているのですが、そうやって心掛けた時間が人生の半分以上を占めようとしているこの時期にブログを始め、今日でほぼ一ヶ月が経ちました。

 

ブログを始めたきっかけは、友人の318ちゃん(ブログ開始して約1ヶ月で1000PVを達成していて凄い)がブログを開始した事、その他にもいくつか面白いブログを読んだ事でした。

318ちゃんのブログはこちら↓

venie318.hateblo.jp

雑念だらけの人間にとってTwitterこそ、その時の脳裏にある思念を垂れ流すのに最適なメディアでもあったのですが、(度が過ぎてお目汚しレベルの愚痴ボックスになってしまったのと)書籍や映画のレビューだったり、普段実生活で敢えて語らない好き勝手な自論を、ある程度まとまった分量で掲載出来る点でTwitterとは違う魅力を感じ、ちょっとオウンドメディア持ってみるぞワーイ\(^o^)/という気持ちで始めてみました。思った事を思った時に好きなだけ語れる。空気や状況を読まずに奔逸する思念のままに垂れ流せる。とても楽しそうです。

そのような文章は学生時代にでも書き散らして卒業しておけ、とは思わないでもないのですが、実はこれまで自主的に日記というものを書く習慣がなかった人間なので大目に見て頂ければ幸いです。

日記を書いて来なかった理由としては、ある種日記というものに先入観を持っていた事が大きく影響しているかもしれません。何となく「その日起こった出来事とそれに対する喜怒哀楽などの感想」を書くものだと思い込んでいたのです。私は結構小賢しい性格をしていて、起こった出来事の原因やメカニズムを分析して解析して解体し尽くして分かった気になりたいという人間なので、インターネットにおけるブログという形態は、従来の日記が果たす役割のその先の思考を可視化できるものとして映りました。

 

 

「思念が奔逸する」という概念は物心ついた頃から自分の中にあったような気がするのですが、言葉としては大学生くらいの時、もしかしたらTwitterを更新しながら「あー今めっちゃ思念奔逸してるわー」と自覚し、めちゃくちゃ概念が確立された感があったので、そのままブログタイトルにしました。

このブログのコンセプトに合致していて気に入っているのですが、記事を更新するにあたって思考の流れそのままの順序で記載していくと収拾がつかなくなることが目に見えているので、せめて(割とブログにありがちな)わかりやすいテーマを与えたり、分けて論じられるイシューは別記事にしたり、本論とは関係のない話は括弧書きや取り消し線、脚注で処理したりして、なんとか読んで下さる方や後から読み返す自分が理解しやすいように最低限努めております(本文を圧迫する程の文章量で脚注をつける事を「なんとなく、クリスタル」方式と心の中で名付けておりますが、本論とは何の関係もありません。つまり、そういう事です)。

 

 

この様な調子ですので、PV数は全然上がりませんがぼちぼち好き勝手書いてまいりますので、どうぞ、よしなにお願い致します。

 

複製技術は表現者にとっての福音か

先日、絵を描かれる方とお話をする機会があったのですが、その中で新鮮に感じた言葉がありました。

「自分の絵が印刷されると嬉しい」「印刷される事によって世の中に羽ばたいていける」というものです。

 

多くの人がそうであるように、本物よりも複製を遥かに多く消費し、普段「作品」を作るような方とお話をする機会がなく、ざっくりいうと複製を作る側でもある私にとって、原画=オリジナルこそ価値があるという意識があったからです。

ドイツの文化評論家 ヴァルター・ベンヤミンの著書に「複製技術時代の芸術」(1936年)という評論があります。この著書の中に「アウラ」※1という概念が出てきます。

噛み砕いて言うと、アウラとは「いま、ここにある」という事によって立ち上がる一回性のイメージ、つまりオリジナルを目の前にする事による尊さ・唯一無二性による「礼拝的価値」の事を指します。

そして作品が人の目に触れる機会が増える事により、相対的に「礼拝的価値」が減る、というのがベースの考え方となります。

ベンヤミンは、複製技術によって芸術の権威が下がり、大衆へ向け解放され批評や分析の対象となる事で「展示的価値」が生まれるとし、新たな芸術の捉え方が展開される事に希望を見出していたようです。

 

この論が頭の片隅にある為、私は複製技術の恩恵を受けるたびに感謝しながらも、やはり希少なオリジナルにはアウラという価値を感じているのです。

また、絵画の分野に関しては特にこの考え方を当てはめてしまいがちでした。

何故だろうと考えたのですが、絵画は「オリジナルは本物、複製は偽物」という様に分断して捉えられやすい性質があるのではないでしょうか。一つの作品に対するオリジナルの数が一つきり、もしくは限りなく少ない、再現する事を前提としていない、という事に関係がありそうです。※2

 

たとえば音楽であれば、正解とされる楽譜なり本物とされる演者なりで複数回公演を行う事でオリジナル自体の数が増えます。

また、再現の質という側面からを考えると、オリジナルと複製のトータル的な価値はあまり差がないような気がします。音楽のオリジナル(生演奏)には、実際に生で聴いた時の音圧や、その場限りのアレンジなど、正にそれぞれの公演毎の一回性のアウラが存在しますが、反対に言えば演奏ミス等、作品としての「正解」とは異なる要素が含まれやすいという事でもあります。一方複製されたメディアには、ある段階での「正解」を具現化する為にコンディションを整え、何度もやり直した上での「正解」が封じ込められています。もはやオリジナルとは何なのかという話になってきますが、結局の所、生演奏の圧倒的なアウラを享受する事の価値と、作品としての最高到達点をパッケージされた尊さ+いつでも好きな時に再生出来る複製ならではの利便性+≒アウラをうまく享受出来ないリスク(思ったより楽しめなかったとか行くの面倒とか)の回避性を比較すると、トータルの価値は同じくらいになりそうです。

 

文学の再現性の高さは更に顕著です。何をどこまで文学に含めるのかという問題もありますが、仮に「文字を書き起こしたもの」にすると、全く同じテキストを打ち同じフォントを指定するだけで再現できてしまいます。※3なので、文学においてオリジナルと複製の差異は無いにも等しいと考えます。(そもそもオリジナルって何?生データのアウラは凄いのでしょうか?※4)昔の文豪の直筆原稿やゲラには確かにアウラがありますが、文学としてのアウラというよりは一種のフェティシズムの様な気がします。作品として計算しながらもパッションを感じさせる文章を書くにせよ、理性を吹き飛ばした放縦な文章を書き散らして圧倒するにせよ、そういった文学としてのアウラは言葉自体で表現されるのであって、筆圧の強さや筆跡の掠れ具合ではないと考えるからです。※5

言語学の用語でシニフィアン(記号表現・能記)/シニフィエ(記号内容・所記)という概念があります。※6

この用語を拡大解釈して考えを進めると、シニフィエ自体が特定の誰かのものではない為、芸術ではシニフィアンで差異を出していく、という事になります。文学でも文字をどう組み立てるかというシニフィアンで差異が生まれます。が、韻を踏むなどのテンポ感は音楽に通じますし、フォントやレイアウトを生かした作品は絵画的なアートに通じます。例外※7はありますが文学においては、どのように語るか=シニフィアンよりも何が語られているか=シニフィエが本質だと捉えられる傾向があります。そもそも「文字に起こす」という行為が、(対象が限定的であっても)シニフィエを他者へ伝播させる、という目的を持っている訳ですから、一回性のアウラとは逆のベクトルです。

翻って音楽や絵画などは、シニフィアンを享受する事が主眼となるものです。つまり、シニフィアン性が高い芸術ほどアウラが宿りやすい、といえるのではないでしょうか。

 

ここで冒頭に戻り(長かった)受け手側としてはオリジナルにアウラを求めやすい芸術の分野、送り手としてはどうなのか、というお話になります。※8

人それぞれのスタンスによる事ですし、作品を作っていない立場からの憶測ではありますが、送り手側はアウラの事とかあまり考えてないですよね。一つ一つの作品は確かに異なりますが、受け手側に比べて送り手側は自分自身なので圧倒的に再現性のある立場です。

そしてやはり表現して発表する以上、誰かに伝わってほしいと考えているのではないでしょうか。特別に功名心とかがある訳ではなくても、発信したものが伝播し、能うかぎり何かの役割を果たしているというのは嬉しい事なのかもしれません。

 

いつも作品を受け取り消費する側の視点からすると、複製技術は便利※9で恩恵を受けまくっておりとても有り難い発明だと思っていたのですが、同時に作品を作る側の事も幸せにしているのであれば、本当に複製技術万歳だなぁと思った出来事でした。

 

※1 いわゆるオーラに近い概念

※2 ここでいう絵画に版画やデジタル画、前衛芸術は含みません。彫刻などは含みます

※3 現代では同じものを享受出来るかどうかに関わりがあるのは、文脈や受け手側の解釈です。

※4 そもそもオリジナルが何かを明確に定義できていない時点でオリジナルの数を数えられないので論が破綻しています

※5 パッションが無くても楽器の弦が切れる事もあれば、有っても切れない時もある、みたいなもの

※6 林檎であれば「林檎/リンゴ/りんご」という文字の形や「RINGO」という音がシニフィアン、林檎やApple、pommeなどが表している概念がシニフィエ

※7 個人的には、円城塔氏の作品がテキストを用いた表現を突き詰めていたり、物語性より語感の印象が強く、シニフィアン性が高いと思います

※8 小説家や漫画家の人が多くの人に読んで欲しい!と思っているイメージは容易に出来ますが、油絵や水彩画を描いている人が見て!と思っているのは何故かイメージがつきにくいです。

※9 複製を所有する事で何度も自分が楽しめるだけでなく、過去の作品を見ることができるという保存の観点からも。物理的に破損や紛失した絵画や彫刻、過去の人物のパフォーマンスなど。

 

 

【番外編】牛丼屋チェーン3社 カレー比較

松屋はカレー屋、吉野家は牛丼屋、なか卯はうどん屋、すき家はファミレス。松屋オリジナルカレー原理主義者です。

前回「何故バンドマンは松屋が好きなのか」という記事を書いたのですが、カレーではなく牛丼の話に終始してしまった為、番外編を書きます。

 

malily7.hatenablog.com

 

 

元々私は松屋に対して、牛丼チェーンの中でもガッツリ系の商品が多いというイメージを持っていました。一度胃もたれをしているのに不可抗力で松屋に行かざるを得なくなり、更にうどんが置いていない店舗で絶望した事がある為、寧ろあまり良いイメージではなくなりました。(以来体調不良時の松屋には警戒して生活しています)

ところが、「深夜に食べる松屋のカレーが嗚咽するほど旨い」的な言説を(推しの人が言っていたと)聞きつけ、自称辛い物好きの私は早速調べた所、かなり研究された本格派であるらしいので食べに行くことにしました。

深夜に食べていないので嗚咽はしませんでしたがかなり美味しく、正直なところ某カレー専門チェーンのものより辛さの方向性が好みであった為、専門チェーンより安いしこっちで良いじゃん、という理由で松屋はカレー屋と認識する原理主義者となりました。

そんな折、なか卯のプレミアムビーフカレーが美味しいという話を所詮牛丼(うどん)チェーン店の話であるにも拘らず強めに主張された為、原理主義者としてはとてもファンダメンタルな気分になりました。

黙って松屋のオリジナルカレーを食せ。御御御付けの水面に七味の紅葉を浮かべろ。

しかしながら、食べずに文句を言うのも良くないと思い、なか卯と更に吉野家のカレーを食べ比べる事にしました。

 

なか卯 「プレミアムビーフカレー並」690円

名前の通りビーフが見える形で含まれています。確かにプレミアムと名乗るような方向性の味をしている。まろやかでコクがあるというか、文明開化の時の人々が喜んで食べてそうな味。分かる、なか卯の企業イメージとしてはこれが正解。

ただ、圧倒的に辛味が足りないよね。

値段もそこそこだし、なか卯に居るならうどんを頼むしプレミアムなカレーを食べたくなったら銀座カリーを買って帰って家で食べると思います。

 

吉野家 「ベジ黒カレー並盛」590円

(通常の黒カレー 並盛350円)

普通に黒カレーを頼むつもりだったのですが、写真をみて急に野菜を食べたくなったのでこちらに。予想よりもスパイスが効いていて辛い中にも纏まりのある味でした。カレーを追求したカレーというよりは定食屋で出てくる美味しいカレーみたいな感じ。というか野菜が美味しかった。さすが端正な味の牛丼を出す吉野家

 

松屋 「オリジナルカレー 並盛り」380円

本格派を目指し生み出された味。スパイスが効いて広がりのある味です。具が溶け込んでほぼルーですがそれで十分満足できました。カレー道を追求したカレー屋っぽいカレーという印象。単に料理としてというよりも「牛丼屋チェーンが本格派の味を目指した企業努力を安価な値段で提供される」というUXごと食らっている側面もあります。某カレー専門チェーンのポークカレー463円に対して380円。コスパ最強!コスパ最強!と思いましたが吉野家黒カレーのみなら30円安いのね。具やトッピング無しで保つかどうかがポイントかもしれません。

基本的にオリジナルカレー一択なので期間限定のトマトカレーなどには寄り付かなかったのですが、麻婆が好きなので「挽肉と茄子の麻婆カレー定食」は食べました。カレーを食べているのか麻婆を食べているのかはよく分かりませんでしたが、麻婆カレーという食品としては美味しかったです。(麻婆過激派、カレー過激派はどう思ったのでしょうか)

 

以上、牛丼チェーン三社三様のカレー比較でした。総合力の吉野家、カレーで一点突破してくる松屋。色々な牛丼チェーンの中では二強ですが、しばらくはこの二者択一を選べない日々が続きそうです。

 

何故バンドマンは松屋が好きなのか

どうも、松屋オリジナルカレー原理主義者です。

先日もライブを観た帰りに松屋に寄り、オリジナルカレーは相変わらず美味しいなあと感動していたのですが、そもそもバンドマンの人※1、松屋派が多くないですか?私のタイムラインには松屋に行っているバンドマンで溢れている。というのは私の所感であって何のエビデンスもないのですが、気になったので検証(という名の暴論)をしてみる事にしました。

比較するのは「松屋」の他、牛丼チェーンの中でも代表的な「吉野家」「なか卯」「すき家」。因みに私の中では松屋はカレー屋、吉野家は牛丼屋、なか卯はうどん屋、すき家は牛丼チェーン界のくら寿司(=ファミレス)という事になっています!

 

①価格

一般的な牛丼の並に相当するメニューで比較します。

松屋  牛めし並盛り 320円(値上げ前は290円)

吉野家 牛丼 並盛 380円

なか卯  和風牛丼 並 380円

すき家 牛丼 並盛 350円

※2018年4月3日現在

松屋の値上げが話題になりましたが、値上げしてもなお安い。予想をしていた結果ですが、やはりこのお財布への優しさが決め手か。

 

②店舗数

全国及び東京都の店舗数を確認しようと公式サイトを調べようとしましたが既に都道府県別店舗数が纏められている表を見つけました。当たるべきは偉大なる先行研究!

https://mitok.info/?p=109461

※2018年4月3日閲覧時、数値は2017年秋時点の情報

すき家  全国1954店舗 / 東京都264店舗

吉野家  全国1132店舗 / 東京都193店舗

松屋  全国950店舗 / 東京都340店舗

なか卯  全国436店舗 / 東京都85店舗

牛丼といえば吉野家のイメージがあったので、すき家が全国店舗数でトップというのは意外でしたが、ファミリー向けのブランドイメージを鑑みると、全国津々浦々にあるのは納得です。そして特筆すべきは松屋の圧倒的な都市偏重の姿勢。全国店舗数ではすき家の半分程度ですが東京都の店舗数では上回っています。各都道府県の店舗数を確認しても首都圏、愛知県、京阪神への出店が目立ちます。

ここで思い至るのは、(私は大して音楽に詳しい訳ではないので)そもそもの命題となっているバンドマンが主に首都圏(か、せめて名阪)で活動しているという事です。つまり前提にバイアスが掛かっています。バンドマンが松屋を好きな率が高いのではなく、前提となるバンドマン達の松屋へのアクセシビリティが高い為、結果的に松屋派が多く見えるという現象が起きていると分かりました。

 

ここからは完全に蛇足です。

店舗数が0軒となっている都道府県数が松屋なか卯共に12となっています。全国店舗数が松屋の約半数かつ全国的な知名度が低いであろうなか卯と同数。地元にはない松屋が東京には沢山ある。地方から上京したバンドマンにとってある意味松屋は首都に来たった感※2を象徴する存在なのかもしれません。※3

 

あと完全に偏った考えなんですけど、結局のところ松屋派って言った方がロックっぽいですよね。吉野家派だとしても余程こだわりがない限りわざわざ標榜する事は少なそう※4だし、すき家派やなか卯派は健全な匂いがする。そこは安価でオイリーかつボリューミーな松屋であるからこそ標榜する価値はありそうです。

 

メニューの検証をする前に力尽きたのですが、とりあえず「何故バンドマンは松屋が好きなのか」という命題に対しては「必ずしも命題が正しいとは言えない」「でも松屋派ってなんかロックっぽいよね」という結論となりました。

 

次回、松屋オリジナルカレー原理主義者のカレー比較をお届けします。

 

※1 まず私のTwitterのタイムラインに流れてくる主なバンドマンの属性20代30代男性に受けそうな脂っぽいガツンとした味というだけではないか、という懸念は当初からありました

※2 眞鍋かをりさんが東京で絶対行きたかった吉野家から出て来たところでスカウトされたというエピソードを思い出しました。当時は圧倒的に牛丼=吉野家の構図が強かった気がします

※3 私が育った都道府県には4系列とも存在しています。が、そもそも地元にいる時は牛丼など食べず何の印象も無いのに、一番近くにあったすき家に今行こうとは思わないかも…。中途半端な地方都市出身のコンプレックス!

※4 普通に美味しいので